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タイで英語教師になる!人と人との繋がりで実現した夢

2007年にタイに住み始めるまでは、フィリピンとベトナムで仕事をしていました。フィリピンでは通訳、翻訳、日本語教師と英語教師として働き、ベトナムでは日本食レストランの女将をしていました。

ベトナムに住み始めて3年が経った頃、病気で倒れて日本に戻り、そのまま長期入院となりました。その後1年の療養を経て、タイに渡ること決めました。

なぜタイを選んで、英語教師として働くようになったのかをまとめてみました。

目次

英語教師の道を決めるまで

検査

ベトナム、ホーチミンの日本食レストランで女将として働いていたころのことです。

接客、買い出し、メニュー、従業員教育、PR、その他雑用すべてに追われて毎日慌ただしく働いていました。気が付けば半年間も休日を取っていませんでした

「もう辞めよう」と思う気持ちが頭の片隅にありつつも、目の前にある仕事を片付けることだけでいっぱいになっていました。精神的にまだ大丈夫だと思っていても、体の方が先に悲鳴を上げることを、このときやっと知りました。

高熱が続き、日に日に弱り、最後は車椅子に乗ったまま日本に帰国することになってしまいました。そのまま長期入院、退院後も通院が続きました。そして、毎日暇なベッドの上でいろいろ考えるようになったのです。

「今までした仕事の中で一番自分に合っているのはなんだろう?」そう考え始めると、浮かんでくるのは英語教師でした。英語教師の仕事は、フィリピンで行なっていました。日本人の駐在員の方やそのご家族を主に教えていました。

会社で自分の意見を言えるようになりたい、メイドさんたちと意思疎通できるようになりたいというご要望が多く、各家庭にお邪魔して家庭教師をしていました。

生徒さんたちから「英語が楽しくなってきた」「成績が上がった」と直接嬉しい言葉を聞くと、私も嬉しくなりとてもやりがいを感じました。でも、日本語で英語を習いたい人が多いため、英語を教えているにも関わらず、私自身の英語を使う頻度が下がってしまいました

自分の英語のレベルを上げていくためにもっと英語を使う環境が必要でした。

そこで今度は日本人以外の人に英語を使って英語を教えられるようになりたいと思いました。無茶に聞こえるかもしれませんが、またいつ倒れるかわかりません。だったら好きなことをして生きていこうと決めたのです。

なぜタイでの英語教師を選んだのか

チャレンジ

フィリピンやベトナムに住んでいた頃からタイにはよく遊びに来ていました。タイは先進国と開発途上国のちょうど中間ぐらいという印象を持っていました。

自然もいっぱいで、東南アジア独特の人の温かさや親しみやすさを持ちつつ、街はインフラがしっかり整っていて、病院やショッピングモールなど必要なものが揃っています。

たまに旅行に行くには素朴な大自然が好きなのですが、住むには不便すぎることもあります

その点タイは住むのに最適だと考えていました。そんなタイで仕事を見つけて住みたいと思うようになり、タイでTESOL講座(英語を母国語としない人のための教授法)が取れる学校を探し始めました。英語で英語を教えられる証明書がないと仕事を見つけるのが難しいのです。

タイに関係する知り合いを作ろう

家のトイレに行くのがやっとの体力で、タイに行くなんてとんでもない!と周囲に言われるのがわかっていたので、極秘に準備を進めていきました。

タイに知り合いが1人もいないのでまず人脈作りから始めました。東南アジアに長く住んで人脈がいかに大切か身に染みてわかっています。そこでオンラインでペンパルを探し、同性でなるべく真面目そうな人を数人選んでメール交換し始めました。

気が合いそうな友達が3人でき、その子たちに今度タイに行くことを伝えました。

彼女たちとタイで会う約束をし、学校の手配をして、タイに行く日まで少しでもたくさん動けるよう体力づくりをしました。段取りがすべて整った後、周囲にタイ行きを告げました。

みんな呆れていましたが、私が止めても止めるタイプではないと重々わかっていたので最後は心配そうに送り出してくれました。

TESOLスクールでの日々と結果

英語

タイに着いて、学校が紹介してくれたアパートに住むことになりました。学校から徒歩5分、1階はレストランでとても便利でした。

授業の初日は圧倒されっぱなし。先生はオーストラリア人、生徒はアメリカ人、イギリス人がほとんどで、英語が母語以外の生徒はオランダ人が2人と日本人の私だけでした。

みんな先生にガンガン質問し、日本人のように静かに先生の言うことを聞くなんてことはありません。慣れない状況に私はあわあわするばかりでした。

午前と午後は講義で、夜は実習。

その間にプレゼンテーションやテストもあって、2か月間のコースはスケジュールでぎっちりでした。

最初はネイティブスピーカー相手に英語の模擬授業やプレゼンテーションをすることがプレッシャーでたまりませんでした。でも日が経つに連れ見えてきたことがあります。

ネイティブスピーカーは英語を習ったわけではないので、教え方や文法に苦戦していました。私は帰国子女でもなく、日本で地道に「I, my, me, mine. You, your, you, yours……」とぶつぶつ呪文を唱えるように覚えてきました。

その上日本人相手に英語を教えていたので、文法や間違えやすいところはしっかり押さえています。おかげで実習、プレゼンテーション、最終試験も好成績でコースを終えることができました。

好成績で修了したものの、私を雇ってくれる学校はどこもありませんでした。「あなたが青い目で金髪だったらね」と言われたこともあります。学校側としては、教え方云々ではなく、ネイティブスピーカーが欲しいのです。

ネイティブスピーカーでなかったとしたら、せめて見た目が西洋人であることが暗黙の条件のようでした。英語があまり話せないフランス人も簡単に仕事を見つけていました。

ショックではありましたが、英語を習う側からしたら、ネイティブスピーカーに教えてもらいたいという気持ちも分かるため、まずはボランティアで雇ってくれるところを探しました

捨てる神あれば拾う神あり

少年

タイで会う約束をしていた友人3人に実際会い、自分の状況を話しました。そして、ホームステイをしながらタイのことをもっと知りたいとも伝えました。

その内1人がタイの最北端メーサイにいる友達を紹介してくれました。その友達が英語の先生で、勤め先の学校で英語の先生を募集しているので、是非行ってみるように勧められました。

学校の教員宿舎にも入れてもらえるそうなので、大変ありがたいオファーです。人脈パワーに感謝です。そして数日後に夜行バスでメーサイに向かいました。

12時間もバスに揺られ、とても大きなグランドのある学校の前に着きました。出迎えてくれた友達の友達である、英語の先生に連れられて、職員室へ行きました。

英語の先生として雇ってもらえることでしたが、ボランティアとしてしか無理だと言われました。話が違うと思いつつも、そこは自分もボランティアから始めていいと決めていたので受け入れました。

次に、宿舎を見せてくれました。

そこは宿舎というよりは何もない倉庫のような建物で、コンクリートの壁と床に隙間だらけの窓があるだけでした。とても住めるような状態ではなく途方にくれました

そこに別の先生が「とりあえず今日は家に泊まったら?家に住んでくれてもいいし、宿舎でもいいし、好きな方を選んでいいのよ。」と声をかけてくれました。

後戻りしたくてもどうしたらいいかわからない私は、その先生のお家にお邪魔することにしました

ようやく決まった勤め先と現在

山

声をかけてくれた先生のお家についてびっくりです。ゴールデンレトリバーが3匹も自由に駆け回れるほどの大きなお屋敷でした。

お家の中も素敵なアンティークがたくさん飾られていて、広々としたベッドルームが4つもありました。用意してくださった食事もテーブルに並べきれないほどです。

私の心の中は一目見た時から決まっていましたが、こんな素敵なお家に住まわせてもらえることが信じられませんでした。その後私はこの素敵な家の素敵な家族に暖かく受け入れてもらい、4か月間ボランティアとして学校で英語を教えました。

ずっとボランティアで働いている私を心配して、家の人が有給で働ける小学校とその近くのお家も紹介してくれました。週に2回小学校で働きながら、個別に家庭教師の仕事も受けていました

今は語学学校に所属し、近隣の幼稚園、小中学校、高校、専門学校に派遣されて教えています。もちろん最初にホームステイした素敵な家族とも交流は続けていて、今でも時々家を訪ねます

まとめ

私のやりたいことを後押ししてくれたのは、私の病気です。そしてよくわからないまま飛び出した私の夢をつないでくれたのが、人脈です。

思いがけないことや、どうしたらいいのかわからないこともたくさんありましたが、その都度私はこの人とのつながりにたくさん助けられてきました。タイの青い海や辛いタイ料理も好きだけれど、何よりも人とのつながりが好きだから、12年経った今でもタイに住み続けています。

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この記事を書いた人

タイ旅行でさまざまな都市をバックパックひとつで旅をする。プーケットにてスキューバダイビングのインストラクター資格を取得。バンコク在住歴は10年。

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